かつて私は、一度クリアしたゲームのソフト本とデータについて、手放すを良しとしない人間であった。ゲーム雑誌で事前情報を集めた高揚感、中古屋で店頭価格と財布の中身を秤に掛けながらの一喜一憂、プレイ中の期待と焦燥と葛藤と諦念と復調と再起と興奮と感動――それらがぎゅっと詰まっているソフトとデータは、もはや思い出そのものであった。
しかし、30歳を越えてからというもの、私は徐々に、昔の記憶を鮮明に思い出せない体質となっていた。記憶から消したい嫌な記憶も、いつまでも留めて反芻したい愉しい記憶も、どちらも“概要”しか思い出せなくなっていた。ぶっちゃけ、老化現象である。些細な不愉快エピソードだけは何故か鮮明に覚えていて、ふとした拍子に甦って気持ちをザラつかせるが、それは記憶というよりも反射に近い。まあそんな訳で、今の私からは、ゲームソフトやデータを取っておく意義が失われているのであった。
よって、これまで貯めに貯めていた、クリア済ゲームと未クリアゲームを、この度一挙に整理した。全てのソフト情報を「ゲームメーター」に登録して、未クリアの“積みゲー”本数を確認したところ、実に150本もあった。しかも、持っている筈なのにこの整理の場にいない、部屋の片隅で眠っているであろうソフトも、10本前後あるものと推測された。この数字を冷静に見つめたところ、「一度クリアしたゲームを『いつかまたプレイし直す』日は到底来ない」という答えが導き出された。それを受けて、クリア済ゲームは(ドラキュラシリーズ以外)片っ端から段ボールに積めた。そして、ブックオフに引き渡した。
箱詰めしたゲームの大半は、とても古い上に、ケースに罅が入っており、買い取り値段はつかないものと予想された。古いのは、始まりが中古ソフトであるからであり、罅は、当時飼っていた猫が容赦なくそして執拗に蹴落としまくったからである。今回の目的は“処分”であるので、値が付かなくとも一向に構わなかった。また、猫と暮らした日々の証も一緒に消えてしまう点は、まだ今のところ、「いつまでも留めて反芻したい愉しい記憶」として脳裏に残っているから大丈夫なのだった。
ワオキツネザルの赤ちゃん ママにピタッ(動物の写真)・ナナコとユウマ(マサイキリン/動物園始めました。)・ウミガメ(のんびりと動物園散歩)/「白クマの親子ちゃん」(エルエル)/「食事中の娘からのおこぼれを静かに待つ。」(Twitpic/Tweetbuzzより)/「びわの木は。」(ズーラシアオフィシャルブログ 第10弾 チンパンジーの森日記)