2010-07-23 「私は別に気にしないけど、社会にはうるさい人もいるから『大変だね』」 他 [長年日記]

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「私は別に気にしないけど、社会にはうるさい人もいるから『大変だね』」

約1週間前、「茶髪から見た差別社会日本」(はてな匿名ダイアリ)とその反応を読んで、もやもやしたものを感じつつ、「私は“茶髪差別”の現場に立ち会った経験がない部外者だから、言及は避けておこう」とスルーした。しかしその後、「飲めない人は飲めない理由をきちんと説明すべき。学生じゃなくて社会人なんだから」(Togetter)とその反応を読んだ。“アルハラ”の現場にも立ち会った経験がない私であるが、先に感じて時間経過と共に薄れかけていたもやもやが、「●●差別」「××ハラスメント」の個別差でブレないものと判り、形を成し始めた。ので、それをここに整理しながらぶちまけてみる。

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“理不尽”な扱いを受けている人の対応策は様々

私は、対茶髪:「私は別に気にしないけど、社会にはうるさい人もいるから『大変だね』」、対アルハラ:「飲めない理由を(したくないならしなくても良いが)ざっくり説明してもらえるとやり易い」――と考えるタイプである。よって、どちらのエントリ及び反応にも、「“差別者”のレッテルを貼られた一群に私も含まれているっぽい!」という、強い反発を感じた。

私は自分自身が、“理不尽”な扱いを受けたくなくて堪らない。もしも周囲に、“理不尽”な扱いを受けている人間がいたら、私はその心情を勝手にどんどん悪い方に想像し、自分の気持ちが辛くなりかねない。であれば、私自身のメンタルヘルスの為に、私のできる範囲で力になりたい。しかし、私が「あっあの人は、“理不尽”な扱いを受けている!」と感じても、私の誤解に過ぎない場合もある。誤解でなかったとしても、「“理不尽”な扱いを受けている個人が、周囲そして私にどういう対応をして欲しがっているか?」を最大限に尊重する必要がある、と考える。「“理不尽”と真っ向から断固戦う」「“理不尽”相手に力を消耗せず受け流す」「この“理不尽”に耐えて強靭な精神力を養う」「この程度の“理不尽”如きに騒ぎ立てるは愚かなり」「自分がどんな策を取るにせよ貴様のような頓馬の力は借りない」――等、“理不尽”な扱いを受けている人の対応策は様々である。私はそれに応じて、ストレートに加勢したり情報提供したりネゴったり温かく見守ったり忘れたりしたりしたい。

この時、私がまず相手の対応策を聞き出す為には、「私は別に気にしないけど、社会にはうるさい人もいるから『大変だね』」といった感じで水を向ける事が多い。また、聞き出した対応策が「あなたにも何らかの協力を求めたい」であった場合、協力するつもりが逆に足を引っ張る事のないよう、相手の状況について「(したくないならしなくても良いが)ざっくり説明してもらえるとやり易い」と考える。このどちらともを「差別の助長」として否定されると、「差別の助長」に加わらないと同時に、「差別の阻止」に関わるハードルがめっきり上がってしまう。他に方法がないとまでは言わないが、少なくとも現時点では、他の言い方&方法が思い浮かばない。

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差別認識が皆無な状態は、被差別者を無意識に傷つけがち

両件及びその反応を見た私は、「俺は茶髪について何とも思わないから全く気にしない」「俺は『酒は飲みません』という人に酒を飲ませないし事情も聞かない」状態が、大勢から“最善”と見なされているように感じた。この感覚が正しいという前提で話を続けるが、果たして本当にそうなんだろうか?

まず容易に思いつくのが、「“理不尽”を受けた人は、その苦境に対する共感を欲しないのか?」という反論。自分が“理不尽”を受けたと仮定して想像してみるが、欲するとも言えないし欲しないとも言えない。どちらを選んでも、舐めた苦汁は取り消されない。かと言って、どうでも良い訳でもない。私には答えを出せない。ただ、「“報復の連鎖”を望みたくない」としか言えない。

次にこちらは自体験を通じて最近痛切に実感した、「差別認識が皆無な状態は、被差別者を無意識に傷つけがち」という反論。私は自分自身が、“理不尽”な扱いを受けたくなくて堪らない余り、他人にも“理不尽”な扱いをしないよう、世間一般的な差別感情を持たずにおれるよう心掛けていた。そうしたところ、目の前にいる人が世間一般~世間の一部に“迫害”される要素を持っていても、それがあまり認識されないようにまでなった。その結果、職場の飲み会で「頭髪の量を気にしている人」相手に、富野由悠季を「ハゲ」と呼称して、暫く己の過ちに気付かなかった。また、「性同一性障害の女性が女子トイレを使用する」という通知を受けた時に、「生理用品を収納する棚を割り当ててあげないと」と本気で心配して、暫く己の過ちに気付かなかった。今現在の私は、「少なくとも私に限っては、かえって他人を傷付けないよう、差別認識を無邪気に捨て去るべからず」――と己を戒めている。

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