時折は薄ぼんやりと死にたい気持ちの私が、「死のう」と思うまでに至らないのは色々理由がある。簡単に説明できる範囲で挙げると、「死にたい具体的な理由がある訳じゃないので、具体的な自殺算段まで考え着いていない」「実際に死ぬような目に遭ってる訳じゃないのに死ぬのは、死ぬような目に遭って死ぬ人達に対して冒涜ではないだろうか」「やっぱ両親が死ぬ前に死んでしまうのは良くない気がする」、そして「生きるのに伴う苦痛を避けたくて死にたいのに、死に際に激しい苦痛を伴うらしいのが受け入れ難い」といったところだろうか。
最近この、「死に際に激しい苦痛を伴う」という点について、妄想に基いた仮説を打ち立ててみている。「人間は、死ぬまでに受ける苦痛の総量が定まっている」というもの。因果応報や人類平等といった設定とは絡まないので、苦痛総量を因果で調整できたりしないし、個々の人間に等しい苦痛総量が割り当てられている訳でもない。高齢者が眠るように死んだなら、「ああ、この人はここに至るまでに苦痛総量をほぼ使い果たしていたんだな」、若い人が事故や病気で苦しみながら死んだなら、「ああ、この人は本当はもっと長生きする筈だったのに、不注意や不徹底や巻き込まれで早々と死ぬ事になってしまったから、死ぬ間際に残り苦痛がのしかかってきて相当苦しんだんだな」――と、結果から振り返って判定するだけ。
この仮説には、私のような曖昧な理由で死への願望を弄ぶ人間への抑止効果しかない。生きて受ける苦痛を断つ為に死を選ぶ人ならきっと、「私の苦痛総量はもう充分使い果たした」と判断して、安心して死にゆく事だろう。そして、私のような曖昧な理由で死への願望を弄ぶ人間には、幼くして殺された子供の死が一層痛ましく惨く感じられる副作用が用意されている。……自分を楽にする為に、他人を可哀想化しちゃいかんよなー。この辺、もっと上手い設定がないものか。