詳細は明かせないが、明かしたところで「何だそんな事」と一笑に付されるに違いない、世間的にはちっぽけな出来事のおかげで、毎日真綿で首を絞められる毎日。時折は、薄ぼんやりと死にたい気持ちで、気を抜くとポロリポロリ「死にたい」と口に出して零しがちである。トイレや風呂場なら良いのだが、電車の中や仕事場で口走るようになると、さすがに何とか自制しなければならないと感じる。
私本人から言わせれば、「死にたい」と「死のう」の間には大きな隔たりがあり、それを越えていなければただの夢物語であるから、ナチスに憧れる若者や幼女を犯したいヲタ同様、「思想の自由」「表現の自由」で当たらず触らず保護しとけば良いじゃん――という気持ちである。でもまあ、視界の範囲全てを心配してしまう博愛主義者や、自殺を許せない常識的な人達を、無駄に敵に回す必要も無い。脳に浮かんで口から零れる「死にたい」を、もっと穏当で妥当な表現に置き換えられるものならば、置き換えたい。ので、少し考えてみた。
「死にたい」をやめて、「死ね(>俺)」だったらどうだろうか。二人称視点への移行により、自虐が薄らいで冷静さが増していないだろうか。自家中毒的な女々しくベタベタした痛々しさが失せて、毅然とした態度が登場してやしないだろうか。如何だろうか。
薄ぼんやりと死にたい気持ちの時に、まともな考えの一つでも生まれた験しがあっただろうか。
マレーグマ ラブラブなのかな?(動物の写真)・ミナミアフリカコノハズク(のんびりと動物園散歩)/「【3次元】いぬ×ねこ画像貼りますください」(カナ速)・「子ウサギの親代わりになっているハト」&「毎週9000円の食費がかかっているフランダースの巨大ウサギ」(以上2点、GIGAZINE)
1本足で野生に帰れない伝書鳩が、犬に親を襲われた仔兎達を、優しく暖めている図。“母性本能”というジェンダー依存の枠でくくる風潮は好みでないので、非特異的な“異種間コミュニケーション”、と見たい。<「子ウサギの親代わりになっているハト」
「体長がなんと2.8フィート(約85cm)」「大好きなのはフィグロール(イチジクのお菓子)。普段はブロッコリーなどを食べて毎週の食費は60ポンド(約9000円)」。フィグロールは、オールレーズンみたいらしい。<「毎週9000円の食費がかかっているフランダースの巨大ウサギ」