★ ヤッターマン(主演:櫻井翔/監督:三池崇史)
公式サイト
「タイムボカン」~「ヤットデタマン」(or「イッパツマン」)まで、幼少時に連続して観ていたタツノコアニメの中でも、「ヤッターマン」は夏休みの再放送で鑑賞し直したおかげで、他作品より突出して記憶に焼きついている。あの、親しみ深いが華々しさに欠ける作品を、「妖怪大戦争」が個人的好印象であった三池崇史がどのように実写化して見せるのか、甚く興味があった。勿論、深キョンドロンジョの革ボンテージ姿にも、並々ならぬ興味があった。
実際に観てみたところ、本映画はアニメ本編を手間隙かけて贅沢そして忠実に再現していた。コスプレ衣装に付きまといがちな安っぽさを払拭した革衣装といい、緻密に描き込まれてスクリーンの大画面を間延びさせない舞台背景といい、原作に倣ったあくび一歩手前のマンネリシナリオ(←褒め言葉)を引き締めるしょうもないギャグ(←褒め言葉)の数々を、アイドルから名脇役までの大の大人達が手抜かず熱演してみせる様といい。旧い子供向けアニメを現代の実写映画で焼き直すには、ここまで力を入れて初めて、鑑賞に堪える質に出来上がるのだろうなーとしみじみ思い、製作側の努力と愛に感嘆した。
さて、本筋を外れたところに目を向けると、本作は全体通じて大変に変態的であった(←良い意味で)。しかも3人いるヒロインそれぞれが、異なる変態的な描かれ方をしていた。私なりに感じたポイントをまとめたみた。
- ドロンジョ
- 深田恭子の革ボンテージがただの話題づくりに留まらない勢いで、ストーリーの主幹に据えられており、登場場面も多く、文字通りの正ヒロイン。この深キョンドロンジョに向けられた、ドクロベエそして監督(=観客)の目線が、実にイヤらしい。文章にまとめると、「ドロンジョは、美人で高慢ちきで、悪の手口も(対ヤッターマン戦以外では)鮮やかで、手下ドモをチョチョイとあしらうイイ女だけど、肝心の時(対ヤッターマン戦)に抜けてたり、禁断の恋に悩んじゃったりもする、可愛らしさもあるんだぞ」という感じ。お風呂で物思う様を長々撮った場面や、その直後の「手下の前で裸体晒させる」お仕置き場面が、その代表例に挙げられる。この件について、「でもどちらも画面に裸体は映ってなかった」という事は、どうでも良い事である。
- アイちゃん
- ヤッターマン2号の“2号”という言葉に体現されているような、まるで報われず良いとこなしの裏方恋愛な立場に置かれ、あくまでも恋愛に関しては薄幸に薄幸にされていたように見えた。ヤッターマン1号はバカなので、依頼者である美少女の足に躊躇いなく齧りつくやら、敵首領との事故でしかないキスでもあっさり足場を見失うやら。その都度、嫉妬というより所在無さに追いやられているであろう2号は、公然の恋人同士であり引っ込み思案でもなさそうな割に、誰にも物言わず抱え込む。まあ、バカに何言っても無意味だからだろうが。最終的に、ライバルが恋愛初心者故に自滅してくれたから救われたけれども、この先が非常に思い遣られてやまない。単なる恋人同士に終わらない、逃れ得ぬ運命共同体でもあるだけに。
- 翔子(依頼者の少女)
- 「ドクロストーン調査中に姿を消した父親を探して」という依頼者であり、本人も手足と髪がスラリと長い美少女で、普通ならばゲストヒロインとして丁重に扱われて然るべきところが、無意味に粗雑に扱われる様は唖然とする以外なかった。最初の「粉塵まみれた真っ白姿」と「はしたない姿でヤッターワンにしがみついて決死の移動」は、アニメを実写に置き換えるにあたり派生した過剰なリアリティ表現なのかな?とスルーしていたが、「遺跡内でオモッチャマにどつかれ鼻血」辺りから、全く読み替えが効かなくなった。最後の猟奇的退場姿勢から、「ああやっぱりこれら全ては監督のイジメだったんだ」と、逆に安堵する始末だった。三池監督のサディズムは、スプラッタ系グロに限定されないと判った。
長々と変態ぶりをあげつらってみたが、「アニメ本編を手間隙かけて贅沢そして忠実に再現」ぶり同様、この変態振りにも甚く感嘆した。こういう映画を自由に創れる大人になるというのは、非常に素敵な事だと思った。三池監督が素敵な大人だというのとは、また違うのだが。