先日というか結構前、某飲食店に行って「お好きなお席へどうぞ」と言われてお好きな壁際のソファーのテーブル席に座ってテーブル上のメニューを引っ繰り返していたら、割と小さな子供とそこそこ小さな子供を連れた夫婦が入り口に立って店員と会話しているのが見えた。子連れ夫婦はどうやらソファー席をご所望で、しかしソファー席は私が座った事で埋まってしまっていて、一方窓際の椅子のテーブル席は他にも空きがあって、私はまだ注文もしていない状況であった。私なりに素早く考えを巡らせた上で、椅子席に移ったほうが都合が良いかを店員へ尋ね、店員はそれを子連れ夫婦に伝え、子連れ夫婦は誘いに乗り、私は椅子席に移動し、子連れ夫婦はソファー席に座り、子連れ夫婦と店員がそれぞれに、私の気遣いに感謝の意を示した。
私が最初にソファー席に座ったのは、「お好きなお席」であったからで、椅子よりはソファーのほうが座り心地が良いし、背中が壁際なのも安心できるからであった。そして後に子連れ夫婦にソファー席を譲ったのは、彼等がソファー席を希望する理由を「不安定な子供には椅子よりもソファーのほうが安全」という自分内理屈で肯定でき、「であるならば、余所の子供の安全と自分自身のリラックスを天秤にかけたら前者を選択するべき」と私の中のモラリストな私が私にいつも通りに圧力をかけ、更には、私の中の“世論”が「30歳過ぎて独身で、かつワープアで社会に全く貢献してないお前は、国の宝である子供と子供を為し立派に育てている真っ最中である夫婦に諸々を譲るのが当然ではないか」と扇動したからである。
これが偽善であるかは自分でもわからないが、明らかに善行ではないので、感謝してくれるその人達の気持ちは嬉しく受け止めるにしても、こちらに示された感謝は持て余し困惑し、こうやって随分経った後にようやくweb日記で駄文を吐くぐらいしかできないのだった。
さて。金八先生や教科書で有名な「夕焼け」という詩がある。満員電車で座っていた娘が年寄りに席を譲るが、年寄りが次々目の前に押し出されてくるので、最後はとうとう席を譲らず身体を強張らせたまま座り続ける――そんな一場面を描いた詩。娘は詩の中で詩人によって、「『他人のつらさを自分のつらさのように感じるから』『いつでもどこでもわれにもあらず受難者となる』『やさしい心の持ち主』」と語られている。しかし私が思うのは、「結局最後の最後で席譲ってないじゃん」というのはこの際置いておいても、「他人の辛さを自分の辛さのように感じて、自分のものとなった他人の辛さに責め立てられて行動を起こす」のは「優しさ」なんかじゃないんじゃないかと。それって所詮、自己防衛本能。相手の辛さを軽々しく引き受け安易な辛苦や悲哀に溺れる事なく、自他の境界を保った上で他人に善行を施せてこそ、他人に誇れて他人に褒められる立派な行いの筈。
……ここまで書いて、自分に対して「ぐだぐだうるせえ」と思った。
東京0270(世界はニャーでできている。)・船の切符売場の立看板下で眠る猫(The Greek Cats)・チラリ(おちこじんち。)・弦月もどき(ねこなど)・。。。。こんな鼻だったっけ&うちの家の上から目線を感じたので・・(香港ねこぶろぐ)