いただきます(ぽれぽれDays)・シマ争い(Cat Scratch Fever)・ペロン(おちこじんち。)/飼い猫はお茶目でイカす!(イカスモン/カチャマイブックマークより)・腹筋が痛い(どうせ「猫バカ」だもん)・おとうにゃんラブなの(こんとこ日記 ぶろぐ編)・お手伝いをしてあげる。(monotone)・いきなりまこ(まこという名の不思議顔の猫)・ねこ日和(もずくのきもち)・ネコうつるんです(うちにゃん@レオっち)(以上6点、猫式訓練所より)/YouTube“Wrapped Up Kitty”(カチャマイブックマークより)&“Merry Christmas from Winston and Rudy ”(cat@logより)
Xmasラッピングされてプレゼントと化したが、包みを破って飛び出たっぽい猫。外国映画とか見る「プレゼントの箱から扇情的姿の美女登場」と、巷で聞く「自分にリボン付けて『プレゼントは私』」の合体的フェチズム。<“Wrapped Up Kitty”
2つとんがり帽子+髭が可愛い、サンタコスチュームの猫。着る前も着た後も嫌がっている気配だが、飼い主との間にこれ迄の信頼関係がある筈だから、安直に虐待とは思わない。<“Merry Christmas from Winston and Rudy ”
ファーコート☆(purapura.com)/「ママのおなかから“こんにちは” 東山動物園にコアラの赤ちゃん」(中日新聞→2NN)
★ 「檻から逃走のトラが観客襲撃、1人死亡 米動物園」(CNN.co.jp)
動物達の姿を眺める等して和まんと出掛ける動物園は、その平和な趣の礎が、「巧みに飼い馴らされているがいつ何時牙を剥くかわからない“危険”」でできており、遊園地の絶叫マシンと変わりない――と気付かされた。
★ 「キミの瞳を検査する」(エキサイト 健康)
眼球に空気を吹き付ける機械は「空気による角膜の変形度合い&時間から弾力性を測る『トノメーター』」、覗き込むと勝手にピント合わせする機械は「近or遠視・乱視度合いを自動測定する『レフラクトメーター』」。
はてなブックマーク経由で、「許されざるもの」(電脳ポトラッチ)を読んだ。或る芸人の「風刺もなければ真意もない」障害者弄りネタ(→YouTube“障害者をバカにするネタを披露している芸人”)を枕に、「赤ん坊の泣き声がウザイから殺したいとか、障害者が騒ぐのがウザイからどうのとか、最近この手のひどい言説がよく目につく」と話を拡げ、
要するにこれって、公共の場で欲求を解放することを「承認されている」存在に対する嫉妬心ではないか
自分が許されて来たんだから今度は自分が許す番。どうしてもその順番を受け入れたくない、許されてきたという実感がない、いつまでも自分だけが特別扱いされる弱者側でいたいという「しがみつき」が、「許されている弱者」に対する怒りを煽る
と分析しつつ、
そして弱者になりたがる「なんちゃって弱者」が、本物の弱者を攻撃することに苛立つわたしにも、そういう幼児性を臆面もなく解放してはばからない人間に対する妬みみたいなものがあることは言うを待たない。
とご自身も似たような感情をお持ちである事を認めつつ、
だからといってわたしは弱者として哀れまれるのなんかまっぴらだし、そもそもエセ弱者の攻撃性は社会的に承認されているわけでもないので、「無自覚な人って羨ましいよなー」という感慨以上のものにはなり得ないのですが。
と明確に線引きして分け隔てしておられる文章であった(以上、私なりの要約)。この方のこの主張には、論の組み立ても含めて、何ら反論も持たず素直に納得している。その事とは全く別に、自分の中にモヤモヤが生じてしまったので、それを今から吐き出してみる。
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私は私自身を、「弱者になりたがる『なんちゃって弱者』」だと考えている。メンタリティ的には非モテであり、非コミュである。しかし今ここでわざわざ「メンタリティ的には」と断るように、それは狭義の(一部の非モテ&非コミュによれば「真の」)非モテ&非コミュ定義に自分があてはまらないと考える節がある為、最近では自称を極力避けるようにしている(――時折忘れてうっかり書いてたりもするが)。
「弱者になりたがる『なんちゃって弱者』」である私にとって、他の「自称“弱者”」は、立場的には同じ種族である。以前には、「『自称“弱者”』同士は傷付け合わないだろうから、『自称“弱者”』の楽園が何処かにあれば良いのに……」ぐらいに夢見た時期もあった。しかし、いろいろを主にネットで見聞きしてきた結果、「『自称“弱者”』同士は傷付け合わない」はあり得ないと知るに至った。非モテ&非コミュの自称をやめたのも、「狭義の非モテ&非コミュから『おまえ似非じゃねえか! 仲間面すんなカス!』とでも罵られたらやってられない」との気持ちからである。自分が傷付けられたくない気持ちも勿論あるが、「自称“弱者”」が他の「自称“弱者”」に傷付けられるなんて、誰にとっても馬鹿馬鹿しい物笑いの種にしかならない、という考えもまたある。
さてここで、「弱者になりたがる『なんちゃって弱者』が、本物の弱者を攻撃することに苛立つ」に繋がる。私の場合、「弱者になりたがる『なんちゃって弱者』」が攻撃するのを見て苛立つ時の攻撃対象は、「本物の弱者」に限らない。自分のような「なんちゃって弱者」でも、或いは「強者」であっても構わない。そして、私の中に苛立ちが生まれる原因は、「そういう幼児性を臆面もなく解放してはばからない人間に対する妬みみたいなもの」ではあるのだけれど、「幼児性を臆面もなく解放してはばからない」行為そのものではない。その行為によって彼等が「自称“強者”」達から手を差し延べられ、“承認”やら何やら望みのモノを得られる可能性、と、彼等が「『自称“強者”』達から手を差し延べられて、“承認”やら何やら望みのモノを得られる」という期待を抱いているであろう事、にある。
しかし、私は「本物の弱者や『自称“弱者”』や強者を表立って攻撃しない『自称“弱者”』」が、「表立って攻撃する『自称“弱者”』」よりも、“弱い”存在とは思っていない。私が「攻撃しない」のは、モラルや美学でなく、「大勢に反撃されてフルボッコになる痛み」&「声を張り上げても誰にも手を差し延べられない哀しみ」に耐えられそうにないから。そしてそれは、「これ以上痛み&哀しみを負えきれないぐらいに傷ついているから」とは言い難い。むしろ、声を張り上げる「自称“弱者”」こそ、「これ以上痛み&哀しみを負えきれないぐらいに傷ついているから」イチかバチかに賭けているかも知れない。その可能性があれば尚の事、私は「他者を攻撃する『自称“弱者”』」に対し、「私が嫉妬して苦しいからやめてくれ」とは言えない。ただ膝を抱え指を咥え、彼等の怒号や怒濤の反撃、断末魔或いは天からそっと下ろされる一筋の蜘蛛の糸、を他人事として見聞きするばかりである。