再び子猫を保護する(アポロとチョコの優雅な日々)・かまってほしいの(我輩はスコである。)・小顔になりました(ほんわかにっき)・猫穴(ニャ郎ども通信)・珍しいアングルの猫写真(猫またぎ)/「猫とカルガモが『親子』に 杉戸」(埼玉新聞)/YouTube“Brave Panda:Part1”&“Brave Panda:Part3”&“感恩讚美●一餐的胖答(Panda)”(※「●」は文字化け部分※/カチャマイブックマークより)
★ 「『ライフスタイルの表現』は、『脱オタファッション』の射程外」(世界のはて)
脱ヲタファッションは「世間への適応」即ち「“ヲタ”というライフスタイルからの逸脱」である、という話(かな?)。個人的には、脱ヲタファッションはニコレットのようなものと考える。役立つ処方あまりないけど。
★ 「脱オタクファッションの限界」(30代からの脱オタク)
脱ヲタ邁進4年間を振り返り、リアル感のなさを感じる人。“ライフスタイル”は“音楽”“スポーツ”“ヲタ趣味”以外にもあるが、問題は自分自身のものと感じられるか否か。あと大概の人は“コスプレ”止まりかと。
★ 「本が書店に並ばないからといって、自費出版の出版社を訴えるのは筋違いだ!」(月刊『薔薇族』編集長伊藤文學の談話室『祭』)
「自署が書店店頭に並ばないのは契約違反」との自費出版社訴えについて、「全出版物の約半数近くの本が売れ残り屑紙になっている現実」を説くエントリ。知らなかったのでメモ。自衛の為に知識は必要だ、とつくづく。
(確か)同年代の奥様である十夜さんが書いた「自分があまりにも料理をしたがらないことについて」(真夏に悪い夢を見る)を読んで、同じく「あまりにも料理をしたがらない」人間として、共感したり「あ、ここは私と違うな」と思ったりしたので、私も私自身の「私があまりにも料理をしたがらないことについて」振り返って考えて書いてみる事にした。
私は、母親が共働き故に“合理的”なメニューに親しんできたとか、“合理性”重視なあまりに、料理を失敗する可能性の高い自分の子供に冷蔵庫の中身を自由にさせなかったとか、勝手に材料買うにも冷蔵庫にあきがなかったとか、そもそも料理含めて自分の予定を崩されたくない親だったとか、そんなこんなが積もり重なって、思春期の終わり頃に両親と決裂したおかげで、小学生時分に何故か叱られながら教え込まれたサンドイッチしか作れないまま実家を後にしたとか、そういった最初のハンデの高さというのがまずある。しかしそれから10年以上経った今、なお「私が料理を作れないのは親の責任w」という言い訳はあり得ない。
その後の私の暮らしぶりを振り返ると、
料理は準備も片付けも面倒だし、着手している間は常に不安に駆られるが、それでも決して嫌いではないつもりである。しかし如何せん、自分の料理が美味しいと思えない。これは致命的なモチベーション低下原因である。明確に何処かが不味いという程ではなく、というか自分で言うのも何だか「不味い」レベルまでではないように思う。もっと純粋に、「気にいらない」。調理中の段階で、今作っているものの味に飽きている。絵を描くのが好きだったが自分の絵に納得いかなくて描いてる最中にうんざりで完成できなかったのに似ている。高望みが原因なのだろうか?
とにかくそんななので、料理については「具や調味料を適当&奇天烈に組み合わせ極限まで手を抜いた結果が『あれ?意外と美味しいじゃん』」、しかグッドエンドルートが存在しない(当然、「具や調味料を適当&奇天烈に組み合わせ極限まで手を抜いた結果が『やっぱ駄目じゃん』」エンドへの分岐もある)。そして、料理をちゃんとこなす友人に、「本気でうまくなりたいと考えるのなら、まず基礎をちゃんとおさえないと」と正論で諭されてしょげかえる。
私が独身なのは、自分にしか迷惑かけない利点でもあり、それを逃げ道にし続けて料理下手&未婚二重の袋小路から出られない欠点でもある。
経済的に安上がりという理由から作るべきかなとは思うのですが、それにかかる対費用(精神的・肉体的)効果を考えると萎えてしまいます。それに一緒に住んでいた方がいたときは頑張っていたのですが、今はやる気ゼロになりました。
今のご時世だと、「食の安全」方面に意識をおくとモチベーションが上がるのかも、とちょっと思いました。 <br>とか言って、せいぜい「有機栽培茨城産とうもろこしを買ってきて火を通して食べる」ぐらいが今の私の精一杯ですが。