今年も昨年同様、課内の義理チョコを手配する係となった。強制イベントにしたくないので、「参加希望者だけが自由意志で参加できるように」「参加希望者に具体的な案があればそれを拾えるように」という理想を掲げてそれを実践しようとしたら、理想だけ立派でもそれを実践する能力に欠ける私には大層荷が重かった。
まず最初に、課内の女性達にメールでお伺いを立てるところからして非常に辛かった。日頃からろくに会話も交わさないぐらいに距離の遠い人達を含む集団に向かって、仕事とは直接関係のない半分プライベートなメールを送るというのが、まるで私が仕切り好きの出しゃばりキャラだと思われそうで、別にそういうキャラが悪いとは思わないんだけど、少なくとも私の実体からは乖離しているからそんな誤解は極力避けたく、でもメールを送らないと今度は「何かやるなら連絡ぐらいしてよ」と後で怒られるんじゃないかと思い、どちらを選んでも嫌われそうなので辛かった。
次にメールの文面が、あまり事務的だと「無愛想」又は「何『私は皆の為にイヤイヤやってます』アピールしてんの?ウゼー」と思われそうだし、かといってフレンドリー過ぎると「何馴れ馴れしいこいつウゼー」と思われそうだし、何を書いても嫌われそうなので辛かった。またチョコを実際に手配する方法についても、私のセンスでチョコを買うのは他の参加者達があまりのセンス悪さにガッカリしそうで、でも他の人にお願いすると今度は面倒を他人に押し付けたがってると思われそうで、どちらにしても嫌われそうなので辛かった。
そしてここまでの過程だけであまりに辛いので、ごく少人数についうっかり愚痴をこぼしたところ、「そんな面倒で時間かかるんならやめちゃえば?」と真顔で言われてまた辛かった。「やめるorやめないを自分が決められる立場にいる」と信じられる私であるならば、何をするにも何も辛くなく、でも実際にはそうじゃないから辛い訳で。それに私は「義理チョコ」が面倒で時間かかってるんじゃなくて、その外側にあってもっと人生全般に通じる何やかやが面倒で時間かかってる訳で、他の人が私の立場なら何の苦労もなくあれこれサクッと決めて終わらせてる訳で。つまるところ行き着く結論は、「私がやめるべきは義理チョコ習慣じゃなくて人生そのもの」じゃん!
……と、瞬間最大風速的に「人生やめたい」とまで思い詰めて仕事しながらこっそり涙ぐんだりまでしたのだが、ふとした瞬間に「本来私は義理チョコの風習が嫌いじゃないというかむしろ好きなんだよな」という、とても大事な事を思い出した。仕事でも遊びでも何でもそれなりにお世話になった人達に、私の好きな食べ物であるチョコレートを差し出して、堅苦しくなく感謝の意を伝えると同時に私の好きな食べ物を広めるという素敵なイベント(だから当然お返しは期待しない)、それが私の義理チョコスタンス。こうして無事原点に立ち返った私は、人生をやめる事なく、今年の義理チョコイベントを無事乗り切る事ができた。
さてここまで私が心弱らせた職場の義理チョコだが、「デパ地下クラスのチョコの大きめ缶を1個買って『皆さんでお食べ下さい by女子有志』」という、普通の人ならまかり間違っても死を考えたりする筈のないごく簡素な形態であり、恐らくこれをきっかけに私が本当に人生をやめたとしても、誰一人として私の死の原因を理解する事はできないに違いない。
★ 「あごの歯、右側が多い=餌のカタツムリに対応-セダカヘビ類で発見・京大と信州大」
右巻きのカタツムリをより食べやすいよう、下顎の右側に多く歯が生えた蛇。この蛇にとって、匍匐等のバランス取りよりも捕食の効率が優先、つまり食べる事が生きる上で最も大事なんだろうか。とても親近感が湧いた。
相手の“物事に対する姿勢”=「認知パターン」にあわせたコミュニケーション手法。概ね「避けるタイプ」の非モテや非コミュを「向かうタイプ」で啓蒙しようとして失敗、とかか。RinRin王国より。
★ 「2ちゃんねる閉鎖の危機、2ちゃんねらーのミクシィ(mixi)移住は成功するか」(FPN)
mixi界隈で2ちゃんねらが目立った活動を始めている事への憂慮。mixiにも2chにも“程度低い”人は存在し、どっちのコミュニティが上というものでもないが、2ちゃんねらの数の多さ&郷に従わなさは確かに目に付く。
アオサギの繁殖に伴い、市の天然記念物である原生林が糞で枯れ始めているという話。どうせ自然保護と言ったって結局は人間の都合が優先されるんだから、アオサギもカワウのようにいずれは粛清されてしまうんだろう。