残業し過ぎて夜遅くなり過ぎて、何処のご飯屋も閉まってしまった。目に付くのは、半飲み屋モードの中華屋だけ。夜更けにこってりした中華を食べるだなんて、実に私らしい。
中国語を早口で言い交わしながら狭い店内を器用にすり抜ける店員に案内されて席に着き、狭い店内と狭い厨房に似つかわしくなく一品料理の名前がずらずら並ぶメニューとにらめっこ。疲れているし眠いしで食を愉しむモードでもないので、とりあえずご飯モノであれば何でも良いや、と「豚バラごはん」(メニュー名うろおぼえ)を注文。
ところがこれが大層美味しかった。店構え等から「ご飯に濃いめの豚バラ肉がどっさり載った代物」の登場を予想していたのだが、野菜はしっかり入っているし味も適度な濃さで、熱々で量もたっぷり。こんな夜遅い時間にこんなちゃんとしたモノが食べられるだなんて、残業疲れの気分が癒された。でも残業疲れの身体は肥えるだろう。
悪食?(しじみとつくし しじみ日記)・猫も寝起きは・・・(ほんわか写真日記)・ふいぃぃ(三猫の日記)・イジイジ(ねこなど)・防災ずきんの座り心地は?(ニャ郎ども通信)・日課(教官不定期日誌)
待ってる(毎日めろめろ)・「“鉄のよろい”持つ巻き貝、世界で初めて展示」
トラと生活するカンボジアの寺院の話。「トラに、別の世界に住む野生動物としてではなく、同じ命を持つ友人として接する」という考え方の元、野生を目覚めさせない工夫(例:生肉を与えない)をして飼育しているんだそうである。野生動物は自然の姿に留めておくのが正しいのか、では動物園や水族館はやはり悪なのか、そういった野生動物を人工的に交配して家畜や愛玩動物を作り上げる行為についてはどうなのか――等々、いろいろ考えさせる話だと思った。人間が他の動物を殺して食べないと生きていけない以上、完璧な動物保護はあり得ないし、その動物全体の生態に影響を与えずその動物個体に危害を加えていないならば、それで充分なんじゃないかというのがごく最近の私の考え。
sea of tranquilityより。日本酒人気低迷の中、健闘しているというカップ酒。「今回のブームは品質アップが顕著」と言いながらも、「売れる要素は味よりも見た目にある」のが大きいようで、だったらヲタ向けに萌えラベルのワンカップ売り出したら当たるんじゃなかろうか。秋葉でおでん缶の横に陳列すれば超完璧。
寿司に限らず和食全般に合う白ワイン。カルディで売られているらしい。飲んでみたくもあるけれど、ただでさえ国内人気衰退気味の日本酒の立場を思うと複雑。
152mもの長さのテーブルに並べられた、40種類のスープ、100種類のサラダ、150種類ものデザート、合計510種類の料理。料理長が24時間ぶっ続けて作ったという。食べる人は、頑張っても全種類制覇できなくて逆にムカついたりしないよう一層頑張れば良いと思った。あまりにスケールが大きすぎて羨ましくない。私がその場に居合わせても、萎縮してたいして食べられないだろう。
視力0.1以下の面子が、前回の飲み会からパワーアップし、今回はボウリング・カラオケ・ダーツに挑戦。矯正視力時点で一定以上の腕前を持ち合わせていない私の場合、裸眼ボウリングも裸眼ダーツもちょっとした惨事になりそう。カラオケは歌い慣れた歌ばかり歌えば乗り切れるけど。
「『インターネット人類補完計画』の果てに」(琥珀色の戯言)を読んで。5年ぐらい前の個人サイト界は共同体意識がありネットの可能性への希望があったが、今のネットは“自分の正しさ”証明・揚げ足取り・水掛け論・ネットバトル・“個性”発信に終始し、「みんなで融和するためのツールではなく、他人と衝突することによって、自分の存在価値を証明しようとする世界」になってしまった――とのじっぽさん述懐に、深く肯いた。
しかし良く良く考えてみると、これって実は順番が逆なんじゃないか。ブログがなくてweb日記とテキストサイトと雑記サイトが頑張っていた頃にだって、揚げ足取りと水掛け論とネットバトルは、それ専用のウォッチサイトが注目を集めるぐらいに数多くあった。そういうサイトや現象ばかりが増えたから居心地が悪くなったのではなく、居心地が悪くなったからそういうサイトや現象ばかりが目に留まり心に留まるようになったのではないか。いやじっぽさんがどうかは知らないが、少なくとも私の場合。
そして、では何故最近のネットが居心地悪く感じられるようになったのかと言うと、それはつまるところ「メジャー化と空気の変化」(Kitaring☆彡WEB−ここにいるよ。)なのではないかと思った。昔は「社会的に認知されていないマイナー趣味人間の集まりなので、その場に居る全員が変わり者だという自覚があった」為に居心地良く感じられたネット空間が、今は「街を1人で歩くのと同じ位の違和感がある」状態になってしまった――のではないかと。じっぽさんがどうかは知らないが、少なくとも私の場合。
しかしネットの空気が私にとって居心地悪くなろうとも、空気の良し悪しとは関係なしに昔も今もネットには面白く為になる文章その他が無尽蔵である。そしてネットの外に、私にとって居心地の良い空間がある訳でもない。であるならば、私はこの先もダラダラとネットの片隅に居座って、賑やかな方を眺めてはこのようにぶつぶつと呟き続ける事だろう。