★ 萌え猫画像 しまってください。(purapura.com(5月1日付))・カァカァ(おちこじんち。(5月1日付))・また逢う日まで(にゃんげる係数(5月1日付))・ネコ草と白菜(今日の犬様 今日の猫姫(5月1日付))・タリアの子猫たち(299〜nikukyu〜(5月1日付)より)・またまた(だから東京が好き!(4月30日付)より/かーずSP(5月1日付)より)・ちょっと邪魔なんですけど…(教官不定期日誌(5月1日付))
★ 「ヒグマが雪の“冷蔵庫”、食べ残したエゾシカ隠す」(※エゾシカの死体写真あり注意※/sea of tranquility(4月30日付)より)
ヒグマが「一度に食べきれなかった食料を土や草で覆い隠す習性がある」のは良いのだけど、その隠した食料を再び発掘して食べているのだろうか。モズが同様に食料を貯蓄する「モズのはやにえ」も、枝にさした後は忘れて放置すると聞いた覚えがある。
★ 托卵鳥関連 「ジュウイチ:翼の模様で仮親だまし餌運ばせる 米誌掲載」(sea of tranquility(4月29日付)より)・「カッコウとオナガの闘い−托卵に見る進化」(シリサバ日和(5月1日付)より)
1件目、托卵鳥の一種「ジュウイチ」の雛は、翼を持ち上げて黄色い模様を仮親に見せ、その黄色い模様を他の雛のくちばしと誤認させる事で餌を多く運ばせている、との調査結果。必死で子を育てる親鳥の余裕のなさに付け込んだ狡猾な行動であるが、しかしジュウイチの雛の側からすれば自分の命をかけた必死な行動である。
2件目、ここ20年ぐらいから生態域が重なり始め、それぞれ托卵する側される側となったカッコウとオナガ。その20年という短い時間の中で、オナガ社会にはカッコウを攻撃対象と見なす文化が定着しているらしい。
また、カッコウはかつてホオジロばかりに托卵し、カッコウの卵の外見がホオジロのそれに似るまでの域に達したが、ホオジロのほうでもカッコウの卵の識別能力を得てしまった為に、今ではカッコウは「外見があまり似ていない」ホオジロ以外の鳥に托卵しているそうである。種の繁栄存亡をかけた進化学習の目まぐるしい速度が興味深い。
★ 「フライドチキンレシピ」(Alternativ Gourmet〜おるとグルメ(2月21日付)/つかれた(5月1日付)より)
偶に食べたくなる味、ケンタッキーフライドチキン。資料を集めたり調理法の工夫を凝らしたりしながら、家庭調理での味再現に向かって突き進んでいる。
今までの30年の人生の中で、圧力鍋での揚げ物はおろか普通の揚げ物ですら一度もした事がない私の場合は、大それた事を考えずに普通に外でケンタッキーフライドチキンを買って食べるべきだろうな、と思った。
★ 「『ニセ科学』入門」(つかれた(5月1日付)より)
「見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの」「普通程度の科学的知識を持つ『一般市民』には科学と区別がつかないが、専門家から見れば荒唐無稽なもの」について論じた文章。長文が苦手だったりレジュメ形式のほうが判りやすい人には、「科学とニセ科学」レジュメ(ver.2)のほうが良さげ。
私は「疑似科学」や「オカルト理論」を、SF作品やホラー作品のような一種の創作物として好む傾向がある。しかし「机上の空論」の範疇に留まるだけでは我慢できず、あたかも「地位の失墜を恐れた従来学説支持者から迫害を受けている真の理論」であるかのような振る舞いで迫ってくる「ニセ科学」は好きではない。また「疑似科学」に惹かれる傾向があればこそ、「疑似科学」「エセ科学」と本物の科学を区別する目は持ち合わせていなければならない、とも思う。
「夜間診療あれこれ」(晴れの日もある(5月1日付))&「続・夜間診療あれこれ」(同(5月2日付))。主に小児科の時間外診察について、実際に携わっている医師の方の本音とその波紋とをまとめたリンク集。
「医者と患者は本来対立関係にない」事を念頭に置いて、それぞれの文章がどういった立場の人によって書かれているかに留意しつつ読むべき文章群である。そんな時間はないけどどんな事が書かれているか大雑把にでも知りたい人には、「夜間・休日診療は緊急性のある人だけかかるように、それ以外の人はできるだけ自分で時間を作って時間内の診療を受けるよう心掛けた方が、患者の為であると同時に医師の為であるらしい」と私なりのまとめを書いておく。
「オタクとサブカルの違い」(カットキャットの散歩道 退化テクスト)。以前ここで取り上げた文章の他に、私の感想に対する補足や続きの文章が収められている。
4月30日付の文章では、地方ではオタクとサブカル双方の人口が少ない上に両方まとめて排斥されそうな立場であり、お互いに敵対視せず共同戦線を張るらしい事が書かれている。確かに、物事を細分化しそれぞれの違いを論じるのは、その対象の数が多ければ「有意義」であり楽しく感じられるだろうが、対象の数が少なければ対象の個性そのものを論じるのと大差なくなってしまって空しいだろうな、と思った。