2002-08-22 事業部説明会/「美少女」の形容詞/近親相姦防止機能/イヴ/都会人と田舎者 [長年日記]

事業部説明会

勤め先での業務終了後、事業部説明会に出席する為、マックで夕食を兼ねた時間潰しをしてから本社へ。体調不良を理由に参加しなかったのが1回・会社の都合で中止になったのが1回なので、本社に顔を出すのは今日が3ヶ月ぶり。来る度に席等の配置が変わっているのがうちの会社の特徴であり、今回は大移動の後らしく会議室が別のフロアに移っていた。次に来た時はどんな風に変わっているか、今から楽しみである。「どのフロアにも、机も人もない!」なんて事になってたりするかも知れない。

「美少女」の形容詞

「復活『美少女コンテスト』のジンクス」という記事。

「審査員特別賞の三田彩佳は卓球界のスター福原愛の幼いころを彷彿させる容貌という記述を読んで、美少女コンテストHPで写真をチェックしてみたが、全然似ていなかった。だいたい「福原愛」似なんて美少女に対する形容に使っては失礼だろう、と「会社一のブス」との誉れ高い言葉を頂戴した事もある福原愛似(らしい)の私は強く思った。

近親相姦防止機能

「<におい>家族の体臭、他人より嫌 近親相姦防ぐ反応と英誌 」という記事(crescent is in the blues.(22日付)より※1。 )。

どうにも納得できない、眉唾モノのネタ。研究者達は「においが嫌い→同性の身内を嫌悪する」と推測しているようだけど、「(別の理由で)同性の身内を嫌悪→においも嫌いになる」と考えてはいけないんだろうか? どうも理論展開が強引過ぎる気がする。

ところで私は、いわゆる思春期に父親を取り立てて不快に感じた記憶がない。父親のにおいや汚れ等に対する嫌悪もなく、むしろ母親が洗濯の際に文句を言っていたが、それでも洗濯物を別にしたりする程ではなかった。そんな私を「近親相姦を犯しやすい性質である」とするよりは、「単純にズボラ」と考えるほうがすっきりしてて良い。

イヴ

「ミトコンドリア父親からも遺伝、イブ仮説の前提崩れる」という記事。

上の「におい」の記事とは異なり、こっちは注目に値するかと。と言っても、学生の頃すらついていけなかった上に、今では衰えが始まっている私の頭じゃ理解できない可能性も。とりあえず、「パラサイト・イヴ」(瀬名秀明)でも読んでおくか。

都会人と田舎者

胡桃の中の航海日誌「田舎者と都会人」(21日付)を読んで。

田舎者を自認するいずしさんは、「都会人」そのものではなく、「自分を『都会人』と錯覚し『田舎者』を侮蔑する人間」を批判する、としている。しかし、そういった類の差別主義的な人物が「自分を『都会人』と錯覚している」とはあくまでいずしさんの視点であり、「都会人」に対するいずしさん自身のネガティブイメージが見え隠れしている。それは「『田舎者』を侮蔑する人間こそが『精神的な田舎者』」という言葉に潜む「田舎者」に対するネガティブイメージと、まさに表裏一体である。「『田舎者』が『都会人』を揶揄するような局面は、『都会人』が『田舎者』を揶揄する局面に比べると圧倒的に少ないのも事実」だからと言って、立場がマイノリティであるかどうかでやっている事の中身が変わる訳ではないと思う。

※1 但し、リンク先の産経webはタイトルがあまりに直球気味だったので、私のほうでyahoo!ニュース転載分に変更している。

本日のツッコミ(全16件) [ツッコミを入れる]
いずし@胡桃の中の航海日誌 (2002-08-25 12:01)

「田舎者」を揶揄している「自称都会人」に対しては明確にネガティブイメージを持っていますが、僕にはそういう人以外の人に「都会人」という概念を重ね合わせませんし、「都会人」という人が存在するのかどうかわかりません。そして、やっている中身は変わらとのことですが、マイノリティはマジョリティに比べて立場が弱いことも(また別の議論ですが)確かだと思います。

素光 (2002-08-25 13:07)

田舎者を揶揄する「差別主義者」を「自称『都会人』」と捉えるまさにその点に、「都会人」という言葉そのものに対するネガティブイメージがありはしないだろうか?というのが私の主張です。そしてその是非が、実質的な「都会人」が存在するか否かで左右されると私は思いません(私自身は「都会人」は普遍的に存在すると考えていますが)。
また、マイノリティがマジョリティに比べて立場が弱いことは明白ですし、「他者」がそこに情状を酌量する余地は十二分にあるかとは思いますが、しかしそれは同種の言動に身を落とす側「自身」の口実にはならないかと。
その辺のひっかかりを取り去って、いずしさんの文章を「田舎者を揶揄する『差別主義者』に対する批判」と見る事ができた場合には、賛同すべき文章だなーと思います。個人的に大変もったいなく思えたので、つい突っ込んでしまいました。

いずし@胡桃の中の航海日誌 (2002-08-25 18:49)

「田舎者」を揶揄する「差別主義者」を「自称『都会人』」としたところは(「差別主義者」が実際に自分を「都会人」と思っているという可能性があるにせよ)、確かに安易すぎたのかも知れません。自分としては、「田舎者」を揶揄する人は「田舎者」以外の人であろうと思い、対置する概念である「都会人」を当てはめたのですが、同時に「都会人」という概念は都会に住む人全般を指してしまうこととなります。そういう意味では「差別主義者」はそれとして「都会人」とは区別すべきだったのでしょう。
また、「田舎者」に対する差別の存在を認知するなら逆差別を認知しなければならないという議論は論理的には妥当なものかも知れません。しかし、在日朝鮮人による日本人差別、被差別部落者による非部落者の差別が問題にされないのと同様に、僕は逆差別という問題は大きな問題だとは思っていません。「都会人」にネガティブイメージを持っている人がいる可能性はあるとは言え、それを少数者が多数者に対して言動にうつすことは危険を伴うのでそれ自体は問題にならないほど少ないと思います。それに比べて、少数者が多数者にに持っている鬱屈、多数者による少数者の差別的言動のほうが問題に値すると思っています。

素光 (2002-08-25 21:15)

>高遠さん(及びMUSICA FICTAからいらした方々)
私がこの場で持ち出したマジョリティ・マイノリティという単語は、「『田舎者』を揶揄する都会人」・「『都会人』を揶揄する田舎者」の数の大小を指しています。この両者は共に差別者であって被差別者ではありません。この場合は確かに数の上で少ない=社会的に立場が弱いと見ていますが、「行動の正当性を主張するのにその立場の強弱は影響しない」というのが私の考えです。
差別される側にマジョリティ・マイノリティという立場をあてはめるなら、マジョリティ=「都会人に揶揄される『田舎者』」・マイノリティ=「田舎者に揶揄される『都会人』」の2者になるかと思います。「数の上でマイノリティであることが、常に社会的な立場の弱さにつながるわけではない」事は、この場合語るまでもなく明らかでしょう。
つまりここでは、「多数者の少数者に対する差別・あるいはその逆の形での差別という問題」については初めから語られていないという事です。

素光 (2002-08-25 21:42)

>いずしさん
「在日朝鮮人による日本人差別、被差別部落者による非部落者の差別が問題にされないのと同様〜」という点で、いずしさんの見解は私のものとは違うようです。私はこの逆差別は(それほど大きくはないにしても)既に問題となっていると思っています。
また、高遠さん宛の文章にも書きましたが、日本人を「田舎者」「都会人」の2つに敢えてわけるならば、私自身は「田舎者」が多数派であり「都会人」が少数派であると考えます。これはわける人の視点によって大きく異なるでしょう(私は「自分をどちらと認識するかでわけるもの」と考えているので、自然こういったバランスになります)。よって「少数者が多数者に持っている鬱屈、多数者による少数者の差別的言動」という捉え方は、必ずしもあてはまらないかと思います。
ところで私自身は、「毒をもって毒を制す」「自分の中でバランスを取る」為に、差別的傾向を認識した上で例えば今回のいずしさんのような発言をする事には、決して否定的ではありません。無自覚でない差別に対しては、私は反対する言葉を持ちません。

いずし@胡桃の中の航海日誌 (2002-08-25 22:49)

高遠さんへの素光さんへのマジョリティ・マイノリティの議論については、僕は素光さんの立場と同じだと思います…たぶん。
僕と素光さんの立場の違いというのはなんとなくわかったような気がします。
その上で質問なのですが、この問題について素光さんご自身としてはどんな体験をされたことがあるのでしょう。素朴な疑問ですが。
それと、前のツッコミの最後の段落の意味がつかめません。ご面倒でなければ解説していただけるとありがたいのですが。

素光 (2002-08-25 23:36)

そういえば、私の立場を明確にしていませんでした。
私の父母は「都会で暮らす田舎者(地方出身者)」です。その子供である私自身は、「都会出身者とは思えないほど垢抜けていなくて、まるで田舎の子供みたい」という言葉を他人から何度か賜った事があります。家族揃って中途半端な立場であり、「都会人」からは「田舎臭い」と言われ、「田舎者」からは「気取ってる」「お高くとまってる」と言われる事がままある、という程度が「私の体験」になるかと思います。個人的には田舎者・都会人、どちら側の揶揄も不毛であるという認識でいます。
最後の段落については、「差別そのものを否定しようという意図はない」といったところでしょうか。無自覚な差別の危険性については指摘をしますが、差別する側が「差別ではなく区別である」と主張したり、或いは「自分達の立場に加えられている差別のほうが、より問題に値する(から現時点では特に問題とは思っていない)」と説明したりすれば、私自身はそれで納得して引き下がるという方針です。

いずし@胡桃の中の航海日誌 (2002-08-25 23:49)

厳密に言って、「都会人」、「田舎者」の概念は相対的だと思います。埼玉は東京より田舎だし、埼玉は群馬より都会です。そこはまでは認識していたのですが、素光さんの「都会人」とも「田舎者」のどちらにも取られるという「中途半端な」立場の人を考慮していませんでした。そういう背景を考えれば、素光さんの議論は説得力があるなあと思わされました。
差別問題そのものに関して言えば、僕は事実と推測と分けるべきで、「区別である」としても推測でしかなく、不当なものであれば納得はできない、というのが僕の方針です。

素光 (2002-08-26 00:07)

ふと我に返ってみると、私はいずしさんのむなぐらを掴んで「私の立場も理解してよ!」と声高に叫んでいたわけですね。かなり恥ずかしい……まあ今更ですが、ごめんなさい。

龍成 (2002-08-26 09:33)

最先端の何某を持ってくる都会から来た人に尊敬の眼差しを抱いてしまう田舎者達という古き良き構図は遠い昔のことで、セルシオに乗ってロレックスの時計を見ながら農作業に出かける我ら田舎者は最早都会人という人種に何の敬意も払えないでいる。

素光 (2002-08-26 11:43)

都会的とされる事物に誰もが興味を抱く訳ではなくなったのも、古き良き(良き?)構図が成り立たなくなった原因かも知れませんね。
「スタバで飲み物1つ満足に注文できない奴は田舎者ー」
「スタバ如きをありがたがってる奴の方がよっぽど田舎者ー」
「スタバを貶して悦に入ってる奴の方が更に田舎者ー」(以下エンドレス)
私はスタバよりルノアールの方がよほど好きだったりしますが(それは単にオヤジクサイだけ)。

素光 (2002-08-26 11:59)

>高遠さん(及びMUSICA FICTAからいらした方々)
今回の件に「多数者の少数者に対する差別・あるいはその逆の形での差別」が絡んでいないと私が考えるのは、私が「『田舎者』を揶揄する都会人」≠「田舎者に揶揄される『都会人』」・「『都会人』を揶揄する田舎者」≠「都会人に揶揄される『田舎者』」と見ているからかもしれません。
ちなみにそれは、「差別者は自分の立場を認識した上で自分とは異なる立場の他者を揶揄しているのではなく、基本的に自分を棚上げしているだけに違いない」という「明確な根拠のない思い込み」によるものです。……ダメじゃん私。

snow (2002-09-06 22:00)

上記のやりとりと全く関係ないのですが、近親相姦という言葉、「相」でなくて例えば父が娘に一方的な…という場合など多いようなので「近親姦」と呼ぶように提唱している方がいらしたのですが、あまり一般的ではないのでしょうか。

素光 (2002-09-07 19:14)

気になって調べてみたのですが、google検索の結果「近親相姦」=約112,000件・「近親姦」=約827件という感じでした。また、「近親姦」という語句を使っているサイトでも、「近親相姦」を併用しているケースが多かったようです。
「相姦」という語句の辞書的な意味が「社会通念に反した間柄の男女の肉体関係」であるのに対し、「姦」という語句の辞書的な意味が「悪い心をもつこと。よこしまなこと。また、その人やさま」となってしまいますので、「『相』を外して『姦』であらわそう」という動きが定着しづらいのかもしれません。

snow (2002-09-10 03:04)

調べて下さったとは。私がそれを聞いたのは某私大の93年の「精神分析」、講師は「白雪姫コンプレックス」を書いた佐藤紀子先生。童話には父から娘へのそういう話が結構出てきたりするからそういう話になったのかしら?どういう文脈で出てきたのかは思い出せないのですが。

素光 (2002-09-11 00:39)

「佐藤紀子」先生と「近親姦」で調べたら、「重点講演:日本における子供への性的虐待」という講演ログ?が見つかりました<http://kodomo.777ch.org/koen/totigi99/sato99-11-19.htm>(「子ども虐待防止みやざきの会」というサイトの「日本子どもの虐待防止研究会栃木大会報告」内にあるログのようです)。なるほど、虐待絡みのお話なのですね。
他のサイトでは、「父親と女児の組み合わせ→近親姦」「母親と断じの組み合わせ→母子癒着」という表現もありました。
実際例としてはこういった虐待絡みの「近親相姦(=近親姦)」が恐らく多いのでしょうが、文学など創作の題材では逆に虐待絡みではない「近親相姦(≠近親姦)」ばかり扱われている気がします。「近親姦」が普及していないとしたら、そこにも理由があるかも知れません。なんだか推測ばかりですが。